サラリーマン新党代表 青木茂氏の死去(週刊新潮記事)と吉田つとむの記載コメント2016.02.04(その後の追記を含む)

 平成28年1月27日、元参議院議員でサラリーマン新党代表であった青木茂氏(93歳)が死去したというニュースがネットでありました。

 私は、その翌日(1月28日)のブログに以下のように書きました。
 なお、元参議院議員の青木茂氏(元サラリーマン新党代表)が亡くなったということが友人からFBのメッセージを知らされました。恥ずかしながら、その ニュースを見ていませんでした。サラリーマン新党というのは、私が東京に出てくるきっかけになった人物の一人で、そのサラリーマン新党立ち上げに先立ち、 全国を回ってそれを訴えていた方です。私もそうした時期にお会いし、あさまざまにご縁を持たせていただきました。
 謹んで、お悔み申し上げます。

 その足で、お悔みにお伺いした次第です。葬儀については近親者で行うとの報道であり、私がその中に入る由もありません。私が市議会で初当選して以降、ご 夫婦が自宅におられるところに時折お伺いして、ご挨拶やら、ご報告をしていました。ほぼ毎回、当時の関係者の消息を気にされていましたので、自分の知りう るところを説明していた次第です。そうした報告で一番に喜んでもらったのは、私が書いた単著の出版本「 地方議員のための支持者をふやすホームページの鉄則」(学陽書房刊)を持参した時でした。「謹呈」と書いた上で、議会の通称名の署名をしてお渡しした時の 喜び様は他にありませんでした。当時、サラリーマン新党出身者の関係者で他に地方議員もあったこともあって、私の存在はいかほどであったかは分からないと ころでした。しかし、ご夫妻とも、執筆にかけてはその道の専門家であり、私に対して近親感を初めて接せられたのでないでしょうか。そのような印象が手渡し の時の「謹呈」とサインを求められたことに現れていました。
P1120699
 さて、本日(2月4日)発売の「週刊新潮」に、その青木茂氏の追悼の記事:週刊新潮「墓碑銘」(2016.02.11号/02.04発売)が掲載されました。その文中に、私のコメントが掲載されていました。以下、その文面です。
「ゼロからの新しいものを築いた熱気や達成感がありました。一方で、サラリーマンの心をつかむ問題提起はできても、実現する方法論を示すのは難しく、党内で意見の相違も生じてきました」 
 12文字、7行のコメントですが、電話で約1時間話した(説明)したものを集約していただいたものでしょう。

 そのサラリーマン新党が発足して、今年は36年目になります。そのサラリーマン新党ができたのが、昭和58年に初めて導入される参議院比例代表選挙に先 立つ、5月8日に結党大会、候補者発表が東京四谷の主婦会館で行われました。青木茂氏が経済評論家であり、家計簿の作成で先駆的な研究を重ね、主婦の友社 の「暮らしの家計簿」の発行で重要な役割を担っていたことを意識した取り組みでした。当時、「家計簿を黒字に」と言うのも重要なスローガンでしたが、「給 料日の怒りを国会へ!」と言うサラリーマンの源泉徴収制(給与天引き制度)に反対するキャッチフレーズに集約されました。私はその届け出名簿の末席(当時 は固定順の名簿が義務付けで、7位登録)に位置していました。その年の参議院比例代表選挙に候補者を擁立した政党で、最初に候補者名とその順位リストを最 初に決定公表したのがサラリーマン新党であったことを知る人はほとんどいないでしょう。

 今日では一般化した公職選挙候補者の公募が一般を対象に公開募集して導入された例も、このサラリーマン新党のケースが最初であったろうと思います。この 公募で3人の候補者が加わりました。2位にランクされたのが、三菱商事の次長職で、日経新聞の募集小説で1位入選の経歴を持った故・木本平八郎氏(八木大 介・ペンネーム)でした。4位、5位の候補者が公募候補者でした。3位はこのサラリーマン新党づくりの運動にずっとかかわった人物でした。正確には、青木 茂氏が昭和55年の参議院全国区選挙に個人で立候補して落選した以降、ある意味で側近と言える人物でした。6位は青木茂氏の支持者であり、前述のように、 吉田つとむは7位にランクされました。8位、9位、10位も青木茂氏の支持者であり、先の6位の人を含めていずれも人徳者でした。その募集のルールでは、 3年ごとの選挙でリボルビング方式(当選者の次の人が、繰り上がって上位の候補者になる)を公表し、候補者を集めたものでした。メディアを含めて、1名当 選も難しいと直前まで予想していました。その選挙運動期間中に1名の当選が見込まれ、選挙運動の最終盤で複数候補者の当選を予想する一部メディアが出てい ました。新たに参加した当事者には3年後のさまざまの展開を見据えた行動でした。そうしたダイナミックスさを持っていたのが、サラリーマン新党でした。

 他方、この参議院比例代表選挙には多大な広報費用が国から支出されることになりました。選挙公報は比例代表区の候補数に応じて政党の広告スペースが決定 されました。同様に、新聞広告ではやはり、候補者数に応じて広告掲載分量が決まり、その広告先の新聞選択を政党側で自由に決めることができ、10人の全国 比例区の候補者(当時、供託金一人で300万円?だったか、」記憶が定かでない)を擁立すると、約1億円の広告費用(当時の金額)が見込まれ、それを取り 扱う広告代理店にとっては、うまみのある広告手数料の商売でした。しかも、当選者が出ようが出まいが、新聞社にも広告代理店にも一切リスクはなく、立候補 だけ確定すれば、国からその1億円が政党を通さずにメディア側に支払われるというプロセスの商売となりました。手数料、バックマージンの手法が取られまし た。広告代理店は複数の政党にプロジェクトを作って対応しました。それぞれの政党に対して、同一の大手広告代理店(電通など)があたかも別会社のようにふ るまっていました。その点は誠実だたっともいえましょう。このことは、一部、メディアで問題とされましたが、新聞社には自らに値引きなしの広告売り上げが 転がり込む商機でしたので、経営の観点から平穏に収まる事態を望んでいました。サラリーマン新党の場合、広告会社電通の役割はそのキャッチフレーズなどの 作成などのプロデュースにおいて他に代えがたい役割を担っていました。

 実際に、選挙を内側から見ると、それに候補者としてかかわる人士は大なり小なり野心家の集合であり、それは、それまでの新自由クラブ、以降の日本新党な ど、あるいはみんなの党、日本維新の会などを見ても、共通する状況があります。人は当該選挙に当選すると、それは党のおかげと言う観点から自分の人徳(あ るいは仁徳と思い込むまでの意識)と言う考えに変化をしていきます。そうした自己意識を全面的に否定して、操り人形のように「候補者」を扱うのは党首の専 制君主制をもたらすだけであり、近代政党にとって最も忌みするべき事態でしょう。支持者や人が、「先生」と言って近寄ってくるし、また、人から「議員」と して頼りにされることで、意識変換もこれまた必要なことになります。通れば「先生」、落ちれば「サル以下」が、これらの新政党では旧来の政党以上に激しく なりました。要するに、政治の訓練を一切受けずに、公募でいきなり、政治家(議員)になった悲劇(とりわけ、比例区当選者)が起き、自分が偉くなってしま うことのコントロールができなくなってしまうことになります。

 サラリーマン新党では、第1回目の公募条件が即座に揺り動き出しました。当選者が上位2名。大学でいうと、1位の青木茂氏が東大、2位の木本平八郎氏 (八木大介氏)は京大と言う組み合わせでした。また、青木氏が現役の大学教授で、木本氏(八木氏)は直前まで最大手商社の三菱商事社員でかつ、「作家」と 言う肩書でした。この2名だけで歴史が終われば平穏でしたが、かつ、参議院選挙は3年ごとの入れ替えを前提にしており、その更新をどのように行うかと言う のは大きな課題でした。単純に、名簿順位を繰り上げるリボルビング方式を採用するルールを踏襲しておれば、以降の失敗の状況はいささか改善されたでしょう し、その後の政党の集合離散と言う政変にもかかわりを持てたでしょう。現実に、参議院比例区で当選者が出た最初の1年間、いろんな人士が集まってきまし た。それらの人は、現在のリボルビング方式の候補者選定・選考は固定であり、自分らはその展開の後に自身のかかわりを見ていました。私は、木本平八郎氏 (八木大介氏)の公設第一秘書、兼サラリーマン新党事務局員でした。その政党事務局は、私と女性の外来者とで構成されていました。

 青木茂氏にとって、「親藩」と言うか、サラリーマン同盟創立期からの参加者の立場にあった人の中には比例代表選挙の候補者になる人物は一切参加・登場せ ず、国政の参議院全国区選挙で「比例代表選挙」の導入が決まった前後からの参加者「譜代」グループのメンバーと、候補者公募で集まってきた人「外様」グ ループのメンバーでサラリーマン新党は構成されてスタートし、成功したわけです。

 1度の成功はいろんな人を引き寄せますが、不幸は先の「親藩」の立場にある人物が2回目の選挙の候補者に意欲を示したこと、青木茂氏がその様な立場の人 材を組織の中枢において、自らの立場を安定させようと試みたことでした。その組織が1回の選挙で10人以上の議員の当選が見込まれれば、お互いに寛容な考 えで通用したかもしれません。現実には、1名の当選は見込まれるが、あと1名以上の当選は、果たしてどうかと言う現実が、これまでの政党の創立に貢献した 「譜代」の人材が一挙に離反し、反旗を翻すことになりました。その争いはそのことごとくがメディアにも伝わり、サラリーマン新党の初々しさは一転して馬脚 を現してしまいました。加えて、2回目の選考をした候補者すらからも途中で脱落者を出す事態に陥っていました。そうしたことは、83年の第1回目の候補者 選考においては発生しなかったことですので、3年で大きく陣容が劣化したということになります。この選挙では、大政党以外では、唯一の複数当選者を出し、 得票率でも2%以上を確保し、当時の政党要件も満たしていました。当時、新自由クラブと社民連は参議院選挙で合一し、一つの参議院立候補名簿を作成しまし たが、結果は1名のみの当選でした。

 具体的な流れは、次の通りでした。このサラリーマン新党のトップは、3年後の参議院議員選挙に向けて、既存人材のシャッフルと有能な人材確保と言う手段 を講じました。その方法は、論文作成能力で政治的な能力を分類し、候補者を決定するというものでした。その選考を外部の有名人に委嘱したのでした。既存の 候補者がその方式に反撃しないはずもなかったのですが、政治家先生になった側には、自分は仁徳で議員になったと言う錯覚が、それらの人を排除して、単に反 党行為を走らせることにつながりました。結果、2回目の候補者の1位は、青木茂氏の長くブレーンを務めていた新聞人になりました。必要な文章はそつなく書 けるので、安心感があったのでしょう。ただし、その人物は現役の新聞社社員であったこともあって、サラリーマン新党の結成、選挙運動には表面的にはかかわ りが無い人物でした。その人選は、最初の参議院比例代表選挙で当選した、もう一人の参議院議員である、木本平八郎氏(八木大介氏)にとってはなんの前向き な組織展開ではありませんでした。その、木本平八郎氏(八木大介氏)は当初から、地方選挙や衆議院選挙にサラリーマン新党の候補者擁立を何度も試みまし た。その多く、いや大半が失敗でした。一般の選挙に、参議院比例代表選挙に用いて成功した手法をそのまま当てはめようとしたためでした。まさにミニ政党に しか過ぎなったものを、「ブーム」と錯覚したものでした。ただし、それらの候補者は落ちればそれは自己責任と承知してかかわていました。地方選挙で落選し た人が、組織に弓を引くことはありませんでした。その分、それが組織の崩壊につながるものではありませんでしが、選挙の当選しか見ていない人には、運動場 のマイナスの面が強く映りました。

 サラリーマン新党は、保守・革新、あるいは「右」・「左」と言う政治的な分別に距離を置き、脱イデオロギーをもってその特徴としました。83年選挙の当 選者が出た当初、他の無党派系を含めた議員10名で「参議院の会」が設立されました。この人数だと参議院では院内交渉会派と言う勢力になりました。ただ し、こうした体制で主要メンバーの青島幸男氏、野坂昭如氏らとわたりあうのは難しく、サラリーマン新党・青木茂氏は埋没する事態となりました。

 次の参議院選挙で、先の人物(平野清氏)が1名当選するにとどまり、目標の参議院でサラリーマン新党の独自会派を構成できたが、木本平八郎氏(八木大介 氏)の立ち位置は微妙になりました。現実には、他の選挙(国政・地方)に際して、単に推薦と言うレッテル提供の存在になっていくプロセスに至りました。そ の衰退傾向は著しく、その3年後の参議院選挙では青木茂氏自身も再選をできなかったことで、政党としての存在価値が消滅しました。*6年後、木本平八郎氏 (八木大介氏)は無所属で神奈川選挙区に立候補するも落選でした。一人議員として3年の任期があった、平野清氏は現職議員として自民党に吸収され、その次 の参議院比例区選挙で自民党から最下位にランクされて落選しました。青木茂氏は、以前から知こがある菅直人氏を通じて「社民連」の比例候補者となるが、そ れでも落選と言う結果に終わり、その全てが消滅した。

 翻って、青木茂氏自身の総括では、サラリーマン新党が参議院選挙から他に手を広げたことが間違いで、その中に納まっておれば存続できたという考えがあり ました。であるとするならば、参議院選挙区から無所属で立候補すべきでした。参議院比例代表区選挙と言うのは、政党(確認団体)の戦いとすることを前提に 作られたルールであり、自身が旧全国区の立候補した個人名では当選できずに、「政党選挙」になったことで昭和58年に初当選に至ったという経過を忘却され ていました。

 思うに、青木茂氏が、木本平八郎氏(八木大介氏)とともに、参議院比例区選挙に2名も当選したという無名さでの偉業を生かし、単独での持久戦に専念する 方法があったでしょう。あるいは弱体化した新自由クラブ・社民連(58年参議院比例区選挙では合同したが1議席獲得に留まる)とミニ政党グループを形成す ることが可能であたっと思いますが、両政党の策士の前に無残な目にあったでしょうが、新たに参入した人材は地方選挙などで新たなかかわりの目がもっと残せ たでしょう。

 今、私は町田市議会で6期目の議員です。決して平たんではなく、立候補した全部の選挙では12戦して6勝6敗の結果です。国政3回落選(参議院1度、衆 議院2回落選)、おまけに市議選で1回の落選をしました。縁があって下り坂時代に自民党に所属しました。市議選に立候補した時は国政で自民党下野して野党 でした。大半の市議選候補者が公認を辞退して、結果的に私の自民党公認はスムーズでした。ただし、市議会議員選挙は、かろうじての当選と言うものでした。 概して、自民党公認組は低調でした。市議会に入ると、公認、推薦は一切関係なく、分裂会派が存在し、私は旧タイプの自民党籍のみの議員が参加する側に入り ました。その後も続いて、公認で出て当選し、順次、その順位を上げました。4期目は5位まで当選順位が上がりました。途中で、民主党議員が辞職して、都議 補選がありました。それに私が公認で出ることになりました。決して全部で支えられる選挙でなく、落選すると、冷遇の日々が続きました。耐えて、次の都議選 の立候補を巡って、当時の執行部から排除され、やむなく離党をして、都議選を戦いました。もちろん、落選でいた。その選挙の構図は完全無所属となってお り、都議選落選後の出戻り市議選とその次の市議選で連続トップ当選をしてます。

 政党に所属せず、業界や団体の推薦はなく、有名人や有力者の支持や支援もない選挙を戦っていることをどこかで評価されていることで、今日の選挙結果(連 続トップ当選)を得ていると思っています。このことは、自身が全国を足で回ったサラリーマンであったこと、皮肉な言い方ですが、サラリーマン新党で「組織 無し」で戦う経験を積めたこと、その2点が大いなる背景になっていると総括するものです。

 その意味では、青木茂氏が旗揚げしたサラリーマン新党が登場しなかったら、私が議員の道を歩むことは無かったでしょう。つまり、無名・いわゆる地盤とカ バン無し・看板無しにも拘わらず、選挙戦を戦う体制を作り上げ、独自に構築した「戦法有り」と称される候補者となっている背景を生んだものと理解していま す。

 追記:
  下段の文章(注:この中に出てくる、・・・・)は、先日の文章(リンクはブログ、今回のHP掲載文章の意味です)、「サラリーマン新党代表 青木茂氏の死去(週刊新潮記事)と吉田つとむの記載コメント2016.02.04」 に関する加筆です。私自身が詳細に覚えていることと、そうでない部分もあります。例えば、「参議院否定代表区選挙のサラリーマン新党候補者の選考に関する 部分で、選考委員がまだ複数あったような気がしますが、そうしたプロセスには一切関与するポジションにはありませんでした。ただ、この新候補者の「論文公 募選考」方針が公けにされた段階(当事者も知らないところで、メディアに情報が伝えられるのが常でした)で、青木代表には「前回の第3位の人は、別途、配 慮されなくともよろしいのでしょうか?」と問いかけました。それに対して、「本人がやる気があれば、当然頑張るだろう」と返されました。* 当然、この時 の会話では、両者とも個人名を用いています。 

  この中に出てくる、参議院比例区選挙の2回目のサラリーマン新党応候補応募者の論文選考は、作家の城山三郎氏、政治評論家の宮川隆義氏、それに政治学者の 福岡政行氏であったと記憶しています。それらの人選は、全部を青木茂代表がリストアップしたメンバーであり、当時の英知でした。

 ただし、それが生身の人の評価を峻別する経過につながったわけです。

 ましてや、初回選挙の候補者は当初の公募内容において、リボルビング方式で上位が決定した人でしたのでそれを信じ切っていました。しかし、そうした約束 事は無かったかのごとくに候補者の選考が進みました。2回目は前回の候補者も後の人の同列の候補者と扱おうというやり方を平然と進めるものでした。

 選挙の直前に、反乱や脱落が出たり、あるいは批判が起きても仕方が無かったと思う次第です。とりわけ、初回の3位の候補者は、本来2位でエントリーされ るべき功労者でしたが、「政党のイメージアップで得票を増やす」と言う理解で、公募候補者の木本平八郎氏(八木大介氏)を2位に据えたものでした。2回目 の時にまでに、その本人は忠実な参加を果たして来たメンバーでしたが、なんの配慮もなく排除されました。

 この論文公募の手段を取るにしても、前回3位に甘んじた候補者には、別途配慮をなしておれば、人の離反はずいぶん少なくなったと今でも思っています。

 サラリーマンと言う語彙に即して言えば、小さくても組織と言う原則をトップの状況判断で肝心な時に変えたことが、本来の忠臣の離反を招いたと言えます。

記:町田市議会議員 吉田つとむ 保守連合

          2015.一般記事に戻る 一般記事に戻る   HPに戻る