4.吉田つとむの市議時代(未了)

<概要>

 平成6年3月から平成19年2月まで13年間、吉田つとむは4期連続して町田市議会議員を務めていました。13年目が終わり、14年目に入る直前の2月末に辞職し、同年4月執行の都議会補欠選挙に備えました。(結果は惜敗)

 振り返って、最初に町田市議に当選したのは平成6年のことで、日本新党や新生党が中心になって反自民党の連立政権の時代でした。私自身は、それまでの経緯もあって苦難の選挙でしたが、広範な地域と人々によって支えられてかろうじて当選できました。その前回(平成2年)の市議選は次点の順位で落選となっており、丸々4年間の浪人の時期がありました。もちろん、それ以前にも衆議院選挙の落選で、浪人生活を続けていました。平成2年の市議選の落選後、世田谷区の阿部俊之都議(当時)事務所にお世話になって、勉強できたことがその後の自分を創る背景になりました。阿部元都議には今も感謝の念を持っています。

 平成6年の初当選後、様々の人に出会い、また多様な事件や事態に遭遇しました。選挙では、2期、3期、4期と支持を定着することができました。詳細は、下記をご覧ください。

 市議としての取り組みは、「情報公開」がメインにしてきました。最大の成果では、東京では最初に議会のインターネット中継導入(先行例は、富山県魚津市)を提起したことでした。当初、多くの反対がありましたが、3期目の前半で議会運営委員長に就き、オンデマンド方式で導入に至りました。導入後は、内外から大きな評価を得ました。

 市政の政策の中でも、情報公開の推進を最大の施策としてきました。市長交際費の公開に始まり、市政全般の公開を常時心がけてきました。吉田つとむといえば、「情報公開」と言われるようになりました。最も印象に残る課題は、談合企業に関する町田市の損害賠償に関することでした。対象が多くの地元の建設業者に対するものであったため、議会や行政に慎重論がありました。私は公正性を保つ観点で、市が損害賠償の請求を実施すること求めました。議案として提起された時も賛成を表し、過半数で成立させました。激しい対立点を持っていたことがあって、今も様々にわだかまりを抱かれている原因にもなっています。

 議案で最も印象深い議案は、議員提出の都市計画税の税率案審議でした。当時、自民党はその引き下げの急先鋒に立ちました。委員会では引き下げ案が過半数で通りましたが、本会議は維持案を含めて両案が否決となりました。次期の本会議で、妥協案の引き上げ案が成立しました。私は所管の総務委員長でしたが、ベテラン議員の駆け引きの力を始めて実感しました。後の経験に生きました。


<見出し>
*プロローグ 浪人時代
1.     1期目
2.    2期目
3.    3期目
4.    4期目
*エピローグ


*プロローグ 浪人時代

 立候補した選挙では、当初から落選続きでした。そのことを知っている人は少ないのですが、参議院比例区選1回、衆議院選2回、市議選1回でした。都合4回の落選経験がありました。(平成⒚年都議補選の落選で合計5回目の落選)

 平成2年の初市議選は、次点の結果で「力」尽きました。幸い、概要のように、世田谷区の阿部俊之都議(当時)事務所にお世話になることになりました。日々の秘書(もちろん、都議会は私設秘書)の仕事を通じて、地域の政治家がどうあるべきかを勉強できたことが、町田市議会議員に当選することにつながり、その後の自分を創る背景になりました。阿部俊之元都議には今も感謝の念を持っています。平成5年の都議選で、阿部俊之元都議は惜敗され、私は中央区の立石晴康都議の秘書に移し変えていただきました。半年間、その肩書きで選挙準備に専念しました。

1.     1期目



2.    2期目
3.    3期目
4.    4期目
*エピローグ

 

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