6.吉田つとむのサラリーマン新党事務局員時代

 吉田つとむが福岡から上京したのは、サラリーマン新党の活動を仕事としてやることが決まってからのことでした。もちろん、東京に来たことはたびたびあり、以前の博多人形の営業職を務めていた時代からのことでした。

 当初から、サラリーマン新党の議員(公設)秘書と兼務が条件でした。参議院選挙に導入された比例代表選挙の始めての選挙(昭和58年)でサラリーマン新党に2名の当選者がでたことで、その党の議員に公設秘書が誕生することになりました。

 私はその選挙で名簿搭載者であったことで、当選者とは四六時中同一行動をとっていたことが、秘書兼政党事務局員に選任されることに至ったのでしょう。当選した2名の議員の両方に必要とされたものです。(これが、後で大変なことになりました)もっとも、経費を当初から削減した考えのもとに構想されたものでした。

 ところが半分も数年も経ない時期(昭和60年)には、私が(公設)秘書であることは解職になり、サラリーマン新党事務局の専従となりました。

 昭和62年には、サラリーマン新党事務局員の職を辞しました。その間に、衆議院議員選挙に公認で衆議院東京第11区から立候補し、落選しました。


<目次>
 1.第1秘書と政党職員の兼任時代
 2.サラリーマン新党の専従時代

 3.サラリマン新党公認で衆議院選挙に立候補
 4.サラリーマン新党事務局を退職

 1.第1秘書と政党職員の兼任時代 

  長年務めた福岡でのサラリーマン(複数の会社)生活を止め、33歳で上京し、いきなり、議員秘書と政党事務局員になりました。議員秘書としては、私が秘書を務める八木大介参議院議員が新人議員としてすでにスタートしており、よく事情が飲み込めないままにスタートしました。他方で、政党事務局員の仕事は、私を含めて2名の事務局体制でその開設準備の時から関わりました。ただし、議員や支持者を含めてだれも政党事務の経験や知識もなく、内部文書1通出すにも、なんの見本も教える人もいませんでした。無理して他と比較するならば、会社の総務と広報の兼任職と理解してもらうとよいと思います。地方の遊説では、出発準備から帰着の片付けまで一切の手配と運転を私一人で行っていました。
 
 参議院秘書の仕事については、別項に取り上げていますので、そちらをご覧ください。

 この時期のよかった点は、福岡にいた時代には合えなかった人に合うことが出来るようになったことでした。その人物とは、政治家、企業の部課長、国会職員、政府の職員、各種の団体の人などでした。ただし、単独の政治家との接触は、トップからは好まれていなかったようでした。頭脳明晰な人と大勢会えました。今になって思えば、その方々ともっと丁寧にお付き合いをし、つめの垢でも煎じて飲ませていただく機会を持つべきでした。聞きかじりであっても、もっと私も頭がよくなっていたと思います。

 次いでよかった点は、地方に泊まりで出かけることが多くありました。サラリーマン時代は営業職であり、地方に行くといっても駆け足のスケジュールでした。サラリーマン新党事務局の仕事では、地方の選挙に丸ごと関わることがあり、現地に宿泊して選挙の応援をすることもありました。もっとも、際立っていたのは、昭和58年の衆議院選挙でした。選挙区は旧東京4区(杉並区・中野区・渋谷区)でしたが、候補者は参議院比例区選挙の名簿搭載者で、関西に在住する人でした。選挙事務所、候補者の宿泊先の手配から行いました。東京の住宅地としては最もメジャーなところですが、自分自身には見ず知らずの土地でした。その大変さに緊張感がありました。この選挙の結果は「善戦」の域でしたが、ご本人が次に戦うには資金やその間の展望を含め、再挑戦は見込めないものでした。

 この翌年、結婚しました。大きくは公表していませんが、サラリーマン新党関係では最初の結婚でした。相手は、政治関係には全く縁がない、一般の務めでした。私が住んでいた福岡での結婚式でしたが、妻は首都圏の職場に転勤をさせてもらいました。当時では、きわめて珍しい事例でした。関係者にも、非常に喜ばれた結婚でした。

 サラリーマン新党も政党ですので、機関紙を発行しました。月に一回の割でしたが、記事の収集・編成はなかなか困難なことでした。それでも、関係者に郵送しても、街頭で配布しても読むことができるように工夫していたつもりでした。(今日の自分の配布物の記事作成にかなり役立っています)その種の中で最も困難なことは、国会議員が2名(青木茂代表、八木大介=木本平八郎副代表)あり、私に直に命令(あるいは指示)を出す人が二人いたということでした。この種の場合は、相反する命令が相互に出てくる特徴がありました。さらに、困難なことはその秘書さんが議員(代表)が言っていると言って、指示をすることでした。

 この時期に、多くの「文書」を作成しました。事務所にパソコンがなかったので、昭和59年には自前でワープロ専用機を購入しました。字が極端に下手でしたので、そのワープロには重宝しました。その機種は、FD付きポータブルワープロの最初のものでした。当時の反省は、もう少し勉強の時間をとり、文章を作成する機会を持つべきでした。この時期に、せっかくの勉強のチャンスを生かせませんでした。

 2.サラリーマン新党の専従時代

 八木大介議員は、とにかく目前にある選挙に挑みたい=関わりたいとの思いでした。私もその秘書であり、政党の職員ですので、その思いに応えたいと思っていました。とにかく候補者が見つかれば、かなり強引に「選挙戦」を戦いました。あまり、よい結果がでたものはありませんでした。そうした中で八木大介議員の思いに応えることができないことがあり、結果として、その秘書を解職される事になりました。形式は辞職です。

 党の専従になってからは、仕事の内容はやや平凡な仕事になりました。たまたま、関係者の中に資料の整理や文章の記述に優れた人があり、「サラリーマン」の生活に関する白書を作ろうと方向になりました。もちろん、関係者の中には「無駄だ」とする主張もありましたが、直感で、「これは面白そうだ、役に立つ」と思い、その資料収集、整理に燃えていました。後に、「サラリーマン白書」(中教出版?)として日の目を見ました。私がその中の一文でも書いたわけではありませんが、アシストすることに意義を感じていました。本来は、3部作として構想しかかったものですが、当事者の方が意欲が薄れたこともあって、この取り組みは大きく後退していきました。

 あっという間に、2年以上が過ぎ、次の参議院選挙が近まりました。参議院議員の任期は6年であり、3年で半数が改選になります。サラリーマン新党は参議院比例代表選挙でその名簿搭載者の上位2名の当選者を出していました。当時の選挙は、政党が参議院比例区選挙の名簿搭載者を決め、届出時点ではその名簿搭載順位が決められていることが特徴でした。(今の参議院比例区選挙では、順位を自由に決めるとこができ、政党ごとの個人名で得票を得た順位で当選順をきめるのが一般的です)

 本来、サラリーマン新党は次回(昭和61年)の候補者順位を昭和58年参議院議員選挙の前に決めており、リボルビング方式(前回の当選者を除いた、次の名簿順に候補者順位)とするとしていました。前回の3位、4位の名簿搭載者はそれを期待していましが、トップは「名簿順位は新たに公募で決める、その順位は提出論文で決める」としました。ある種の公約違反でもありましたが、その方式の承認には、サラリーマン新党の内外ともに大きな反対は起きませんでした。しかし、いざ「名簿順位決定・公表」となると、候補者の当事者から離党だ、辞退だ、裁判だと異常事態が相次ぎました。結果として、サラリーマン新党の当選者は、前回の名簿には名前がなかった公募候補1名のみでした。私はこうした争いに巻きもまれる意思はなく、参議院選挙の候補者選考過程において衆議院選挙に出る意向を示しました。

 3.サラリーマン新党公認で衆議院選挙に立候補

 私が衆議院選挙に立候補することは他には意外に思われました。理由は後述の経過の次第でした。やや長くなりますが、次の通りです。

 最初の参議院比例代表選挙に候補者として立候補した後、2名の当選者が出たことで、サラリーマン新党のスタッフや議員秘書が必要とされました。他方で、以降の参議院選挙に立候補する意思がある人は、自身の活動を続けるべきだとされました。私は、迷わずに党のスタッフになることを希望しました。思いがけず、公設秘書=八木大介参議院議員第一秘書 兼 党事務局員となりました。しかし、そうした選別は、決して好ましい結果は生まずに、前段の党内で比例区候補の順位選定で対立や抗争が続きました> 要するに、私はこの抗争に巻き込まれず、自前の道を歩むことになりました。

 ただし、これは簡単にことが進んだわけではなく、紆余曲折ありの立候補決定でした。その理由に、サラリーマン新党としては来るべき衆議院選挙をしたかった。(特に、八木大介参議院議員がそれを希望していた)前回の衆議院選挙の候補者は、再度の挑戦を行う意思がなかった。そこに、サラリーマン新党から立候補を希望した人物が突然に登場した。参議院選挙に比べると、61年の衆議院議員選挙はその当事者が自前で運動員を集める原則とされた。その条件をこの希望者は容易に受け入れており、党内に生え抜きの人物を期待する意味で、吉田つとむ(この時の選挙は、吉田勉で立候補)まで容認する状況が生まれた。

 その経過によって、吉田勉はサラリーマン新党を象徴する立場の候補者になっていました。選挙は中曽根内閣の「死んだ振り解散」により「衆参同時選挙」となり、サラリーマン新党は不振、私は苦杯となりました。一生懸命の運動をするも、落選。後一歩で供託金も没収され、政治的な活動を維持するには金銭的にも不足する状況でした。なお、立候補した選挙区は、東京11区(当時の中選挙区エリア、町田市・八王子市・多摩市・稲城市・府中市・狛江市・調布市・日野市・福生市・青梅市・羽村市・および西多摩郡全域)でした。そのために、急遽、大田区から町田市に越していきました。

 4.サラリーマン新党事務局を退職

 私は事務局に戻ったのですが、当時の仕事はほとんど単純労務に絞られ、退職の意思が芽生えました。内部には、表面に出ない事件が相次ぎましたが放置され、私はそこに残る意欲が消えうせました。私の送別会では、「円満退職ということで退職されます」という奇妙な表現で挨拶がありました。参加者は皆、大人ですので、私を拍手で会場を送り出さしてくれました。こうして、サラリーマン新党の専従時代は終わりました。

 次の参議院選挙では、サラリーマン新党は1名の当選者も出せず、名簿トップの青木茂代表は落選し、再選がなりませんでした。すでに離党していた、木本平八郎議員(当時)は無所属で神奈川選挙区からの立候補でしたが、落選でした。

 ただし、こうしたややすさんだ経過はありますが、今も青木茂元サラリーマン新党代表、木本平八郎元議員とは縁が続き、そのご両人は私の行く末にも関心を持っていただいています。それ以外にも、当時から知り合いになったサラリーマンの人と少数ではありますが、付き合いが続いています。 

 私は、その後、平成2年の衆議院議員選挙に、同じく東京11区から立候補しました。ミニ政党の推薦はありましたが、無所属です。極めて厳しい選挙でしたが、手作りのものでした。その間に、新たな友人ができました。
 

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