7.吉田つとむのサラリーマン時代

 吉田つとむにとって、サラリーマン時代は最も印象深い時期といえましょう。高校卒業後はすぐに就職し、一般社会で働き出しました。事情があって、すでに高校入学直後から大学入学の予定を持っていませんでした。

 サラリーマンとしては最初に入ったところは、従業員数が数十人の博多人形を取り扱う個人経営事業所(商店、私の就職後に有限会社となる)でした。私は就職して以来、デパートやホテル、あるいは人形店を廻る営業の仕事をずっとしていましたが、10年以上を同じ会社のサラリーマンとして過ごした唯一の機会でした。後は比較的短期の転職続きで、その博多人形の会社(店)がもっとも長く勤務した会社になりました。



<目次>
0.要旨
1.博多人形販売の営業をしていた時代
2.土木資材販売の営業をしていた時代
3.その他の分野の営業をしていた時代

0.要旨

(冒頭の7行は重複)
 吉田つとむにとって、サラリーマン時代は最も印象深い時期といえましょう。高校卒業後はすぐに就職し、一般社会で働き出しました。事情があって、すでに高校入学直後から大学入学の予定を持っていませんでした。

 サラリーマンとしては最初に入ったところは、従業員数が数十人の博多人形を取り扱う個人経営事業所(商店、私の就職後に有限会社となる)でした。私は就職して以来、デパートやホテル、あるいは人形店を廻る営業の仕事をずっとしていましたが、10年以上を同じ会社のサラリーマンとして過ごした唯一の機会でした。後は比較的短期の転職続きで、その博多人形の会社(店)がもっとも長く勤務した会社になりました。

 この仕事では、形あるものは壊れるの例えのごとく、商品が相手に届いた時に壊れていたという時にどのように対応するか、今で言う危機管理の基本を営業の仕事の中で勉強しました。10年も務めていると、今となっては面白いエピソードもたくさんあります。

 次いで、印刷会社に短期間ながら就職しました。ついで、土木資材・建設機材の販売会社に入りました。それぞれが同じ営業の仕事でしたが、取り扱う商品も、取引相手先の環境もまったくが異なっていました。印刷会社の営業では、製品の中で一文字違ってもキャンセルの対象になることもあり、受注に商品(製品)に対する慎重さが必要なことを勉強しました。

 土木分野の営業職は地べたに座り、山や谷、川や海岸を巡り、地下にも潜る体験が出来ました。自分が着る物がスーツから、作業服に変わったことが当時は印象的でした。しかし、今になってみると、職業分野では世間と人間関係を広く見るようになれた最も充実した時期でした。

 その間に、政治的・社会的な事象、政治活動に深い関心を持ち続け、選挙の応援も機会があるごとに、参加していました。それが別記の国会議員秘書になる縁に繋がりました。ただし、その後も一本調子に事態が進まず、前進・後退果てしなく繰り返しました。様々の人の世話になり、町田市議に当選するまで、数知れずの仕事に関わってきました。サラリーマンとしての「充実した時期」は、福岡にいた時代のことでした。ただし、それ以外も今の自分をはぐくむ環境を作っていただいたわけですので、そのお世話になった人や自分が関わった人々の全てに感謝しています。

 「年金」で表現しますと、通算のサラリーマン時代に厚生年金の加入期間は満たさず、通産して国民年金納付期間を満たしていると換算される程度の結果です。なお、国会議員秘書(木本平八郎参議院議員第一秘書)の時代は、特別国家公務員の扱いとなっています。翻ってみると、そうした先の生活展望を省みずに、社会的な活動、政治的な活動に参加してきました。

 そうした積み重ねが、新天地町田で市議4期(13年)を務めさせていただく財産につながったことでしょう。他方で、自分の生活より、社会的な活動を優先して行動する性分が、都議会補選に惜敗すると、さらに捲土重来を目指す精神につながっています。その意味でも、途中で事業家になっていたら、今とは全く別の道を歩んでいたかも知れません。


1.博多人形販売の営業をしていた時代

 この小さな会社(三舛商店)は、私がサラリーマンとしては最初に入ったところでした。そこは従業員数がわずか数十人の博多人形を取り扱う個人経営事業所(商店)でした。もっとも、その事業所はすぐに有限会社になり、会社形式になりました。私は営業の仕事をずっとしていました。10年以上をサラリーマンとして過ごしました。後の転職からは、もっとも長く勤務した会社になります。この就職の初期までは、「のれんわけ」の伝統がかすかにありました。その意味では、入社が丁稚奉公的なイメージも含んでいました。今の時代には考えられない就職状況でした。

 その会社では、「博多人形」の卸売り業を主体とし、人形製造・小売販売・貿易輸出と多方面の営業形態を持っていました。ただし、人形製造では内製するわけでなく職人さんに委託して、作品を作っていましたので、私が作品の製造自体をしていたわけではありません。仕事では卸売り業を中心に、小売業や輸出の仕事も若干憶えました。この仕事に没頭して、10歳代の最後と20歳代を丸々過ごしました。一つの会社で、幅広い分野の仕事が出来たこと、また、営業担当者として全国を廻ることが出来たのは、世間や世界を知る上で大いに勉強をさせていただきました。

 この時の営業活動で、自分が小さな会社でいても、相手が大きな会社(一部上場)や地域一番の会社であっても、気後れしない体質を会得しました。

 おかげで営業の成績は、一応並以上でした。ただし、朝早くから動き、夜遅くまで働く詰めの日もかなりありました。一方では、寸暇を惜しんで、仕事の合間に反権威主義の政治活動、公害被害者支援の市民運動にも参加していました。20歳代前半は、ほとんど寝ないでも動ける驚異的な体力を持っていました。

 なお、この博多人形業界には面白い人物があり、その製造に革新的な技術を導入したり、戦後直後から政治運動(アナーキズム)の活動を続けていた人、その戦前からの伝統を受け継ぐ人などもありました。少なからずその影響も受けています。


 2.土木資材販売の営業をしていた時代

 政治活動を続けていたことで縁があり、土木資材・建設機械の販売会社に入りました。まったく知識がない分野の仕事に就き、ものを売る営業の仕事をするわけでした。就職した会社の未開拓地域の営業に入り、1月ばかりは全く販売実績が上がりませんでした。めげずに頑張り、たまたま気に入っていただいた会社を拠点に、進出地域に定着した販売先を確保していきました。この入社した会社の上司、同僚の暖かさが今も思い出します。

 この時の転職と新規開拓の営業活動は、自分にとっての新天地である東京都町田市に越してきて、選挙に立候補する大胆さにつながる財産になりました。失敗もたくさんしました。


3.その他の分野の営業をしていた時代


 上記以外の仕事では、印刷会社を始め、上京後も短期的に数多くの仕事を経験しています。あるものは、肩書きのみをもらったものありました。とにかく、友人、知人のお世話になって、その時々の苦難を乗り切ってきました。そうした意味で、サラリーマン生活の中で就職活動をした例が余りありません。社会的な活動、政治的な活動を行っている過程の中で、その時々の人から次の仕事を紹介していただきました。実にありがたいことと、感謝の念を持っています。
 

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