8.吉田つとむの青春時代

 吉田つとむにとって、青春時代は10代後半から20歳代のことになります。この年代は全て福岡にいた時期にあたります。

<目次>
1.高校生時代
2.20歳代前後(学園闘争の勃発時期、反権威主義の思想運動)
3.20歳代半ば(学園闘争の後退時期、公害反対運動)

4.20歳代後半(政党創出の構想と取り組みと停滞)
5.追記

1.高校生時代

 まず、高校は地元の県立高校を受験して入学しました。私の家は極貧ではありませんが、豊かではなく入試は1校のみ、徒歩通学できるところと自分で考えており、親や家族に全く説明せずに実行しました。入学してみると、そこは伝統ある「県立高女」の面影を色濃く残す高校でした。特に思い入れがあって受験したわけでなく、単に上記の理由でした。この学校では、女性がどの局面でもリーダーシップを取ることが普通でした。この現実にあったことで、男女平等の思想を自然に受け入れて対応することにつながる一つになったのであろうと考えます。

 入学すると、教師の一人が私の学校生活を心配してくれて、奨学金受給の手続きを教えてくれました。後からすると、このおかげで、かなり自由な行動だできました。

 また、学外への関心も深く、中学生時代から共産党やその関連団体にも出入りしていました。具体的には、1年生の夏休みには原水爆禁止世界大会に出席しました。広島、長崎にも出向いてのことでした。この時期には、中国の核実験も行われて核保有国に加わっていました。また、アメリカの北ベトナム出撃が開始された時期でもありました。自分が見聞きする事態が錯綜し、高校2年生では共産党の独善思想に興味を失っていきました。

 高校では、社会科学研究会(今では、存在がほぼ死滅。私が入学する10年前くらいは高校生エリートの活動だったらしい)に加わる一方で、独自の歴史勉強会(雑誌ガロ連載 カムイ伝)も主宰していました。現状やあてがわれたものに満足せず、独自にプランし、実行するスタンスはこの年代にも現れていました。

 同級生の大半が大学受験をする中、自分では家族の今日の生活優先と考えて就職しました。身近に、地元の会社に入りました。(「7.サライーマン時代」に詳述)

2.20歳代前後(学園闘争の勃発時期、反権威主義の思想運動)

 社会人になってしばらくは、新しい仕事に馴染むことが優先でした。しかし、社会参加の意識が強く、就職後の年末ボーナスで自前の新聞を作りました。ボーナスは、家族への提供と、スーツ1着と靴1足(当時は、これらの価格が高かった)に使った残金の全部を投入しました。タブロイド両面であったと記憶しています。(発注した新聞は、印刷が活版印刷であった)

 この時期には、佐世保港にアメリカ第7艦隊空母「エンタープラズ」が入港してきました。全国から学生運動のヘルメット部隊の諸君が地元の九大に集結してきました。そのヘルメット部隊と機動隊との一触即発の事態でしたが、学部長の判断で学生が学内に無血入場しました。その光景を身近に見ていました。
同級生の幾人かもその運動に参加していました。

 その後、全国の学園闘争と、激化したベトナム戦争反対の運動(ベトナムに平和を 市民連合)が高まってきました。そうした時期に、九大工学部に建設中の電子計算機棟に米軍のファントム戦闘機が墜落しました。その墜落場所はコバルト60の保管場所にも隣接し、一瞬の脅威をもたらしました。もちろん、パイロットはパラシートで脱出していました。1年ほどは学生がその建物を占拠し、機体の引き降ろしができませんでした。この時期、大阪で万国博覧会が開催されました。その反対イベントにこのファントム戦闘機の機体の一部が持ち出されたと聞きました。私もたびたび、その場所に出向いていました。

 この時期の左翼運動、学生運動は、一時期の「全学連」から、「セクト」や「ノンセクト」、「全共闘」などの組織や運動に主体が変わっていきました。私は共産主義運動の中央集権主義に組せず、少数派である自由連合思想の反権威主義の考えに立ち、その運動(アナーキズム研究会)の創出に加わりました。そのグループでは独自に学内にも拠点を持ち、活動していました。リーダー格がビラの原稿を書き、私はその資金を作り出していました。産業社会が高度成長期に入り、しかも会社の業績も高揚し、サラリーマンとしてはかなり実入りがよい時代でした。昼はサラリーマン、夜は政治活動に専念していました。その活動(資金)を維持するため、休日も休みなく出張を重ね、営業実績を得ていました。

 その活動は、社会的に実になった実感は全くありませんでした。しかし、自分にとっては、目の前の困難に屈しない思想をはぐくむことになりました。

3.20歳代半ば(学園闘争の後退時期、公害反対運動)

 この時期、赤間山荘事件があり、赤軍派などによる粛清行動が発覚しました。他方で、共産主義勢力のセクト間の内ゲバが頻発し、左翼運動が急速に支持がなくなっていきました。私たちにとっも、「反体制イデオロギーによって、目の前の人が救えるか」の疑問が強く起きて来ました。新しい思想に渇望する時期に当たりました。

 この時期、産業世界の高度成長で企業の公害発生が大きな課題になってきました。他方で、企業の発展を阻止するわけにはいかず、その矛盾は被害者と企業の対立構造になっていました。各地の製紙工場が発生するヘドロ被害が大きな問題になりつつありました。最も大きな被害者運動は、水俣病患者による直接行動運動でした。政党や労働組合が主導する運動から、被害者自身の行動、市民の運動が息づいてきました。水俣病患者同盟、水俣病告発する会の運動がそれに相当しました。

 私自身、この水俣病告発する会の運動に加わり、休日はほとんど患者運動支援のカンパ活動に参加しました。その患者活動が一区切りするまで、数年間の支援活動に参加しました。患者代表がチッソ本社に要求する行動スタイルは、その後の市民運動に大きな影響を与えました。

 そうした中で、より「(反体制)イデオロギーによって、現況の人が救えるか」の疑問が強まり、革命思想には大きな隔たりを覚えることになりました。そのため、改良主義の思想に関心が芽生えました。自分にとって、選挙や政治にも大きく観点が変わりました。新自由主義を標榜する思想への共感と、そのリーダー格である「カール・ポパー」に傾注する時代でした。

 この時期、私はサラリマン生活の一方で、各地の社会運動の勉強、参加に出かけていました。先の水俣病患者支援、カネミライスオイルの油症患者支援、横浜貨物線建設反対運動などを対象にしました。社会的には成田空港開設反対運動が大きな話題になっていましたが、その運動に直接参加することはありませんでした。

4.20歳代後半(政党創出の構想と取り組みと停滞)

 先の反権威主義のグループでは、すでに改良主義による社会政治変革をどのように可能なのか、という志向をしていました。後に、「新たな国民政党の創建をめざして 国民政党期生同盟のよびかけ」(http://j-expert.com?/)にまとめました。リーダーが文書を書き、私はその資金を準備しました。その発行したパンフレットの数千冊を持って、私は各地を巡りました。向こう見ずの行動はこの時の体験が生きています。特記する成果は残せませんでした。ただし、政党、政策、理念、選挙と言ったものに関心が広がりました。

 当時の国政では、ロッキード事件に端を発する政治改革の動きが激動があり、新自由クラブが誕生しました。一挙に政治改革を標榜する大勢の国会議員が誕生しました。私たちもその政治改革的思想に共鳴し、参加する考えでいましたが、「所属国会議員の個人後援会」に入ることのみを求めれました。それがトップも含めた考えであったか、議員秘書のものであったかはわかりませんが、交流を持つ機会を逸しました。その後、新自由クラブの考えは、理解しがたい無理な発想だという見地に至りました。例として、新自由クラブは「三世代同居」などと言う、ノスタルジー的な主張をしていました。

 時期は忘れましたが国政選挙に確認団体制度が始まり、国会議員がいなくともその立候補者数を確保すれば「政党」扱いになるとされました。新しい政党も、既存の政党に組して選挙戦が戦えると理解しました。こうした発想や運動を求めて、各地を巡りました。上京してきたこともあり、茨城県知事選挙に無党派で立った人物や、佐賀県で農民運動をバックに衆議院選挙で自民党現職を覆して当選した人物(面会当時は、町長)にもお会いして、それらの経験を勉強しました。

 自分の考えは、特定の階級や階層に立脚するのでなく、「国民」の代表であるべきとするしていました。政治の手法としては、社会の変革は革命的な変革でなく、改良の積み重ねで行うべきだとする改良主義、漸進主義の発想に至りました。別な言い方ですと、保守主義でもあります。この思想運動を広げる活動にひたすら打ち込みましたが、思うような成果は出ずに停滞の日々が続きました。

5.追記


 なお、20歳代最後の時期は政治展望が出ず、たまに衆議院選挙の応援に出かける程度になっていました。ゆとりの時間が多く、車を買い求めてさらに買い替えもする余裕ができました。新しい洋服を買い、ドライブに出かけることもたびたびでした。その傾向の局地は、30歳の時に小型ヨット(ディンギー)を購入したことでした。この時期、週末はほぼ全て博多湾で帆走する日々を送りました。人生の中で、この時期ほど個人的な趣味ごとにお金を費やした時期はありませんででした。

 このようにして、吉田つとむの青春時代はサラリーマンを続ける一方で、政治運動にほぼ全力を時間とエネルギーを傾けていました。
 
 自分にとって波乱の時期を迎える直前でした。 

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