9.吉田つとむの少年時代(作成中)

 吉田つとむにとって、少年時代は福岡市に居住する小学6年生以降と、それ以前の時代に分かれます。この年代は全て福岡県内にいた時期にあたります。当時の私は、感受性がとても強いタイプの子どもでした。

<目次>
1.幼年時代
2.少年時代前期
3.福岡にいた少年時代



1.幼年時代

 私は昭和23年(1948年)生まれであり、第2次世界大戦後のベビーブームの真っ只中に誕生しました。出生地は福岡県みやま市(現在表示、旧瀬高町、生まれた頃は山門郡東山村大字唐尾と言っていました)です。私の本籍は福井県福井市になっていますが、それは私たちが結婚するときに父方の出身地・本籍地をそのまま自分の本籍地にしたためです。私の両親は第2次大戦に外地からの引揚者であり、韓国のプサン市(釜山市)に住んでいたそうです。帰還船が佐賀県唐津についた関係で、母方の出身地の近くの町に引き揚げて移り住んだと聞いています。つまり、私の本籍地と出生地は福井と福岡に似た地名ですが、まったく違った場所になりました。

 私が生まれたところは周りは農家が多く、比較的に野菜などの商業用作物が作られていました。我が家は借家住まいであり、小さな商売がメインでした。と言っても、当時は「行商」のスタイルが主流でした。その他にも「鶏」をかったり、地域にあった協同浴場の管理など様々にやっていました。父が病気がちで母が一心に働いていました。ともかく、当時の我が家は非常に貧しく、他の兄弟が外地に生まれて全員が誕生時の写真があるのに、内地生まれの私だけがそうした幼年期の写真がありませんでした。つまり、日々の生活に余裕がなかったようでした。ただし、これは私に限ったことでなく、第2次世界大戦後に生まれた世代はごく一般的に貧しかったことでした。

 自分にとっての最も大きな記憶では、母の行商に同行して田舎に行ったことでした。水車小屋があり、アヒルが小川に遊んでいました。妙に、リアルで絵画風の「思い出」でした。自分が住んだところが田舎ではあっても、比較的に進んだ農業経営がある地区であるために、先の山里風景が頭に焼きついたのだと思っています。



 この写真は、2015年に姉からもらったものを、直ぐにHPに取りこみました。
 ツツジの花が咲く中で撮ってもらったものです。幼稚園時代のもので、いわゆる「上っ張り」を着ています。今と違って、この時期は幼稚園は1年でした。これ以前の私が写った写真は見つかりません。言ってみれば、吉田つとむの初の被写体です。丸々顏で、4〜5等身くらいの自分です。左利きで、なにかポーズを取っているようです。右手は、親指をポケットに入れています。

 それより、個人的にはもっと大きな事件は、小学校入学前には自分の利き手が「左利き」だったのが右手に変わったことでした。そのきっかけは、幼稚園に通っている頃は全てが「左利き」でした。ご飯を食べる際にお箸を持つのも、ものをつかむのも、あるいは字や絵を描くのもその全てが「左利き」でした。今でも忘れないのは、「字を描く」時に「鏡文字」で描いていると、他の人から違っていると言われても自分ではその違いが理解できませんでした。(その当時に描いた自分の名前などを、記念に残しておくべきでした)話を戻して、毎日楽しく幼稚園に通っている頃、母親に、「つとむ君は「左利き」で字を描いていると小学校に入れてもなえないよ。小学校に入学したくないの!」と聞かれました。私は、「小学校に入学したい。絶対に右手で字を描けるように練習する!」と母親に約束しました。「とにかく、右手が使えるように一生懸命に練習しました。なんとか、右手で字が書いたり、箸を右手で持つことが出来るように勉強しました。その結果、手先がかなり不器用になりました。小学校に入学してみると、左手で字を描いている子がいました。改めて考えると、小学校に入学する時に、字を知らなくとも入学できるはずで、それを教えるのが学校の役割ですが、そこまで知恵が回りませんでした。尊敬する母親ですが、この「左手事件」だけは納得できなでいました。

 この時期は、居住地の近くには、大きな川(矢部川)が流れていました。河原もあり、私の遊び場でした。幼稚園、小学校の3年生の初期まで、その地に住んでいました。

2.少年時代前期(福岡市に移転するまでの時代)

 父の死去と共に、同県筑後市に越していきました。わずかに2年余の期間でしたが、この時期に今と違って感受性の強い子どもになっていました。

 たとえば、モスクワ放送(日本語放送)を聞いて、人類最初の人工衛星の誕生を知ったり、ライカ犬の活躍に驚いたり、胸を痛めたりしていました。放送を聴いては、放送局に手紙を送っていました。先方からは、雑誌やパンフレット類をたくさん送ってこられたことが印象に残っています。当時のロシア(ソ連でした)は、先端的な工業や技術に優れ、宇宙ロケット、人工衛星、南極観測の砕氷船、ポリオワクチンなど、日本人になじみやすい技術が紹介されました。少年としては、異質な傾向であったかも知れませんが、ごく周りの同世代の小学生には認知されていました。

 他方で、社会的な弱い人に対して、自分が役立つ人になりたいという思いが生じたのはこの時期であったと思います。ただし、それが議員政治家をイメージしたわけではありません。

 この時期、学校の勉強やもっと高度な勉強(理科や算数ー数学をかじっていた)が最も好きな時代でした。勉強好きな友人に恵まれたことで自分も感化されました。また、近くにあった、天文台(宗教団体 三五教が運営していた記憶する)にもたびたび通っていました。宗教には関心が向かなかったのですが、天体や宇宙ロケットにも関心を持ち続けました。また、同県久留米市の「石橋文化センター」(体育館と美術館が同じ敷地にあったと記憶します・久留米市はブリジストンの本拠地)も広大でした。それまでに見たことがない、立派なスポーツ施設や美術館であった印象があります。圧倒される文化に触れました。

 福岡県筑後市に住んでいた時代に、福岡市や北九州市(当時は合併前で、5市に分かれていました)に出向いたことがあります。福岡ではプロ野球を平和台球場で観戦(西鉄ライオンズ×大毎戦と記憶)し、百道浜でヨットに乗りました。(これが、30歳になった時に、ヨットが趣味になることにつながったかもしれません)スポーツセンターでは世界的なボリショイサーカスを見た記憶も忘れられません。映画館にも入った気もしますが、記憶には残っていません。その理由は、筑後市にも映画館が数館あったからでしょう。その他では、中州の「喫茶 バンビ」も非常に都会的でした。

 北九州は、列車から見た八幡市の八幡製鉄所が印象的で、七色の煙が煙突から出ていました。(新日本製鉄は、八幡製鉄と富士製鉄が合併したもの)それが繁栄の裏づけでした。また、関門トンネルも出来ていた記憶があり、徒歩で関門海峡を渡りました。海底のさらに下を歩いて海峡を渡ると言う、わくわくする体験でした。(この関門トンネルの歩道は、今の時代にも存在しているはずです)またこの時、本土の下関市側で水族館も見た記憶があります。九州に戻って、門司港で食べたバナナがおいしかった印象があります。(門司港は、バナナの叩き売りの発祥の地)小倉市では、大きなアーケード街を歩き渡ったことが印象的でした。都会への期待が大きな夢でした。

3.少年時代後期(福岡市に移転してからの時代)

 筑後市から越してきた私にとって、福岡市は大都会でした。中心部には大きなデパートがいくつもあり、市内には電車ルートが何本も走っていました。大きな港もあり、飛行場もありました。大きな駅(博多駅)もありました。(ただし、新幹線はまだ博多までは未開通でした)先の平和台球場は、西鉄ライオンズの本拠地で「鉄腕投手 稲尾和久」や「怪童 中西太」が活躍していました。(ただし、福岡市に越してからは、その絶頂期は過ぎており、観客になっていません)相撲は11月に本場所である福岡場所がスポーツセンターで開催されていました。冬場は髷を結ったお相撲さんが大勢行きかっていました。そのスポーツセンターは、冬場が有料のアイススケート場でした。私が通った小学校では体育の時間にアイススケートもやっていました。夏場は海水浴場が近くにあり、簡単に海にいけました。

 有数規模の福岡市動物園が、家から徒歩5分の距離にありました。盛り場の「天神」までは、徒歩20分の距離でした。電車も何本も市内を走っており、どこに行くにも便利でした。祭りは、気軽に繰り出す「博多どんたく」、勇壮な「山かさ」、参道に露天が並ぶ「放生会」などが人気がありました。地区的には、博多地区(旧商人町)側が祭りの中心でした。私が住んでいたのは「警固地区」と言い、福岡城の周りのエリアにありました。思うに、商業地区が博多地区から福岡側の「天神地区」に拠点が変わる時期でした。

 福岡にはアメリカ領事館もありましたが、別に「アメリカン文化センター」と言うアメリカの施設があり日本人に公開されていました。そこで、アメリカの書籍・雑誌を1人で自由に見ていました。飛行機や艦船に特に興味を持っていました。そのまま勉強していれば、英語は得意になったかも知れませんが、後には関心が薄くなりました。
 
 当時の私は、社会問題に関心を持っていました。石炭から石油に国のエネルギー政策が転換した「三井三池闘争」や、ダムの強制着工に反対する「蜂の巣城の戦い」に関心を持っていました。他方では、「日米安保」にも関心があり、安保闘争にも興味を持っていました。小学生では、奇異であったかも知れません。

 そうした関係で、中学生では共産党の活動にかかわり、まさに「赤い少年」の典型であったかも知れません。いわゆる「民青」と言う団体にも中学時代に属していました。中学校時代には、膨大な共産圏の書物、雑誌を読みました。いわゆるプロタリア文学の作品の多くを読みました。ただし、高校入学に至る頃には、共産党・共産主義への不審を抱くことが多くなり、自前で考えるスタンスを取り始めました。契機は、原水爆禁止運動のスタンスが意に沿わなくなりました。当時は、ソ連や中国の原水爆開発が進み始めた時期であり、それらの路線の人は、中ソを擁護するスタンスを取りました。いわゆる「アメリカが全て悪い」とする立場が支持できないものでした。あるいは、社会運動や労働運動を、政党の拡大に利用することにスタンスに辟易していました。そうした経験や思考は、一般の中学生には見られない稀有の体験でありました。

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