10.選挙暦と取り組み(成功と失敗の教訓)試作中2013.10.1更新

 吉田つとむは、平成19年の都議補選、続いて都議会本選挙に立候補したことで、過去10回の選挙に出たことになりました。そのうち当選したのは、町田市議選の4回です。後の6回は落選です。これからも選挙に立候補する考えに立っていますので、これまでの選挙を先に向けた視点で振り返ることにします。

 その意味で、書き方は最近のことを最初に書き、以前の選挙を後にあく方法をとりました。


<目次> 
0.要旨
1.都議補選

2.市議4期連続当選
3.市議落選
4.衆議院選挙に2回連続立候補
5.参議院比例区に名簿搭載者として活動
 (掲載は、新しいものを最初に書き、古い時期のものを下に書きました)

0.要旨
  未記載

1−2.新たな取り組み
   
   市議会にカンバックし、5期目トップ当選でした。 
   詳細は未記載。

1−1.都議会選挙

 平成21年7月、都議会選挙に無所属で立候補し、2万票以上の支持を受けるも落選。
 その後、政治活動を続け、自分を生かす場所を探す。


1.都議補欠選挙

 平成19年4月、都議補選に自民党公認で立候補し、落選。
 その後、自民党内でそれに存在しないかのような対応を受ける。

2.市議4期連続当選

 <4期目>
 選挙は比較的に強いタイプになりました。いわゆる強固な後援会を組織せず、個人の関係を広げるスタイルが定着しかけました。地元に、自民党候補が別にあって、議会内の主導権を把握するような願望を持っていました。

 自分は当然当選する、それより、市長選挙、自民党市議の増大を考えるような行動形式でした。5位当選でした。

 ただし、議会内では所属会派の中外を含めて、自分の存在感は薄く、新たな体制ができていました。私が都議選に目を向ける経緯にもつながりました。丁度、1年で辞職しました。

 <3期目>

 そのことが、後で考えると、自分を強くすることにつながりました。また、新たな支援者が誕生しました。また、まったくぴょんなことから、組織に「幹事長」と言うポジションができ、それが3期目に力を発揮していただくことにつながりました。ただし、無理やりのそうしたトップを作った経過から、ひずみはありましたが、選挙の結果は上々(6位当選)でした。その体制はそれほど持続できませんでした。

 議会運営委員長に就任しましたが、その間、出版社の勧めがあって、著作の執筆に務めていました。無事、一般の商業本として出版されました。その後、自身の活動は、議会内の活動に専念しました。会派の大分裂が起きました。少数派になりました。市議会自民党の幹事長になり、他会派の交渉事をいろいろ行いました。感謝されることも、あるいはその逆も起こました。あるいはよもやと言うことも起きました。


<2期目>
 かろうじて当選して、その後は地元を中心とした活動になりました。幅広く見守っていただいた方々は、「後は自分でやれ」ということでした。この世界ではごく一般的なことです。議会の活動も私への応援体制も順調に思えました。

 しかし、戦った結果はそうした人と親しく対応することは双方が難しくし、自分の地盤が広がる傾向は見えませんでした。むしろ、後援者相互と私の関係にほころびが生じ、その多くが失う結果になりました。当選を目指した時は良かったのですが、それが実現するとリーダー間の調整が難しくなりました。

 2期目は地元に第1期民主党の新人を迎えることになりました。後の総理となった、菅直人代表が自分の選挙事務所のすぐそばで応援すると言うほどの接近戦でした。私はその後塵を拝してしまいました。順位は、29位と言う中途なものでした。

 この間、インターンシップを開始し、若い世代をみじかに見る習慣ができました。後援会を強くして広げると言うスタイルに集中しない方法に変わりました。


 <初当選>

 平成6年の町田市議選挙に臨みました。選挙に当たっては、後援会長もそろいました。日比野 勇 氏という方で、この世界では知られた方でした。ただし、体を壊されたことがあり、動きづらい体もありました。基礎的な支援のつながりが広がりました。様々の経過があって、自民党に入党することにしました。ただし、その扱いは非公開になっていました。私は自民党で立候補するとなったら、拒否される側面が懸念されたためでした。いよいよ、選挙の準備時期になると、私の「自民党公認」はあっさり認められました。この年の選挙では、自民党を看板にすることがほとんどなくなったためでした。

 他方で、比較的に広いエリアを地盤にしようとしたこともあって、次々にそれらの地域で新人候補が手を上げてきました。前回の選挙で新人が少なかったことが、この時期の選挙で一挙にメンバーが選挙に名乗りを上げました。

 また、選挙では平成5年夏、中央政治に大異変が起き、自民党が政権政党から転落する事態が起きました。町田市でも自民党現職の渋谷守生都議が落選していました。一方で、日本新党の都議が誕生していました。日本新党の市議候補が何人も立候補しました。
 
 私にとっては、自分の居住地に伊藤公介代議士陣営の新人が立候補したことが最大の危機でした。地域を挙げて選挙運動があってもおかしくないものが、そうした熱気を持たない選挙になりました。

 この時期までお世話になってきた、世田谷区の阿部俊之都議はわずかの差で落選しており、また、所属政党を新生党に変えており、私自身は自民党の立石晴康都議会議員(中央区選出)の秘書とさせていただきました。これは、全て阿部俊之前都議の計らいによるものでした。*この阿部俊之氏の働きを欠いて、その後の私は無かったろうと思っております。

 地域に若干の基盤が残ったこと、佐藤光平元市議(前回、市長候補)の陣営から支持者が出来たこと、都営や市営の住宅に一定の基盤が出来たこと、自民党青年部のメンバーが所属候補として支援してくれたこと、候補者が出なかった地区の広田幾造元市議と山下七郎元市議が推薦者になって頂いたことも幸いしました。40名の定数中、33位で当選できました。

 選挙のスローガンでは情報公開を掲げました。結果として、好感を呼ぶものでした。その後も、情報公開のエキスパートを自任しています。

 総じて、組織体制が一元的でなかったことが幸いし、ここの局面で支持が続いたことが有利な点であり、自分では拠点になるべき地区であっても、その地区に有力新人が立候補するとなると、一挙に基盤がくづれる側面を持っていました。


3.市議落選(平成2年)

 
平成2年の町田市議選挙に立候補しました。先の衆議院選挙の際に、「進歩党」推薦となっていたこともあって、「進歩党公認」の立候補となりました。定数が40名で44名の立候補でした。結果は41位で、いわゆる次点となりました。他の候補は地盤を固めた上での選挙であり、当方は突然の立候補であり、おのずと無理があった選挙でした。地元にまったく知られていませんでした。一方で、市長に立候補した、佐藤光平 元市議(落選)と縁が出来、その支援者と若干の縁が残りました。

 翻って、先の衆議院選挙の落選で終わっておれば、その後は自分の選挙は終わっていたでしょう。無理に市議選に立候補したことで、「選挙後」が本当の政治活動になりました。地域を回る活動、ここの市民と語り合うことを真に実行することになりました。

 他方で、選挙に投入したものを後で返済することも一部で起きました。非常に苦しい事態でしたが、4年間の辛抱と歯を食いしばる心境でした。そうした決意をさせてくれたのは、この選挙で何かとお世話になった、世田谷区選出 阿部俊之 都議会議員(当時)の事務所で働くことになりました。週に1度は、地元の活動に振り当てることにしました。

 ただし、この進歩党はもともと国会に1議席合ったのみの党であり、その後は形態を無くして行きました。自分では、ほとんど政党に組しない立場で進んでいました。その後、2年から3年で市議候補としてはかなりの基盤が出来てきました。いわゆる後援会の活動も一定の成果を示していました。


4.衆議院選挙に2回連続立候補ー落選





5.参議院比例区に名簿搭載者として活動

 選挙に立候補するのは、参議院選挙に比例代表選挙が導入された昭和58年のことです。その比例代表選挙の名簿搭載者(候補者)になりました。この参議院選挙に比例代表選挙が導入されるとなる以前から、この時期の選挙を目指してその政治活動を行っていました。全国サラリーマン同盟(あるいは日本納税者連合)の名称ですが、福岡市に居住していた時代のことになります。後にサラリーマン新党の候補者(名簿搭載3位)になる小林喜行氏がリーダーでした。元銀行マンで衆議院選挙に無所属で立候補したことがある人物でした。小さな会社の役員兼営業責任者を続けながら、その活動に大きな時間を割いていました。

 その小林氏の会社に属しながら、また別の友人の顧問の肩書きを有して、私もこのサラリーマン新党の名簿搭載者の一員となり、第7位のランクにありました。

 車の運転ができ、うまくはないが街頭マイクで話すことができることが、その位置づけになったのでしょう。実際には、遊説コースを選定したり、適時に記者会見を設定する能力を買われたのだろうと思います。選挙の全国遊説に先立つ、九州一周サラリーマン新党広報キャンペーンは独自に取り組んだもので、県政記者クラブにも好評でした。全県で毎々に来訪記事や遊説動向記事が掲載されました。また、初めて街頭に出現した「サラリーマン音頭」の音楽が、通行人に人気を博しました。

 私は、選挙の前半では名古屋をスタートし、九州に入り、中盤は反転して東京に向かいました。後半には北海道往復を行い、最終版は都内の遊説を行いました。私の当時の写真は沢山あるはずですが、今はまったく見当たりません。当時の新聞や雑誌に掲載された写真の片隅にかなり載っています。

 この選挙では、サラリマン新党は2名の当選者を出しました。他のミニ政党を圧倒した選挙でした。結果、当選者の木本平八郎(八木大介)参議院議員の第一秘書兼、党事務局担当になりました。長く住んでいた福岡を離れ、東京に移りました。昭和58年8月のことでした。

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